何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

十部一峠に行ってきた今季初




今日はふもとからも月山がよく見えたので、
これだったら間近に行けばもっとよく見えるだろうということで、
先日冬期通行止めが解除された国道458号線十部一峠に行ってきました。






今年の通行止め解除は先月末という異例の早さで、
しかも通り抜けできるわけですから、例年になく状態がよいです。
山菜目当ての地元のおじちゃんおばちゃんが繰り出しているのはもちろん、
葉山登山道の入口には数台もの乗用車が停まっていまして、
天気に誘われて多くの方がこの山奥の峠道にやってきた様子です。


荒井もそのクチで、今日は月山目当てに走ってきたわけですが、
天気のおかげで思いかけず珍しい風景を目にすることさえできました。
大師峠の手前で、なんと鳥海山まで見ることができたのです。
ダート区間は何度となく走ってはいるのですが、
鳥海山が見られたのは今回が初めてでした。
もちろん月山は非常によく見えまして、手を伸ばせば届きそうなほど、
くっきりとその姿を拝むことができました。





月山を一望できる猫滝ノ沢付近の広場では、
山形から来たという壮年の男性がイーゼルを立て、絵を描いていました。
話を伺うと月山の絵を描くためここに3回ほど足を運んだものの、
残念ながらそのときは見えなかったそうで、今回ようやく見られましたよと、
喜んで絵筆を走らせていました。
実はこの区間ですっきり月山を見られるのも、結構運がいいことだったりします。





せっかくだからと永松銅山跡に寄り道します。
砂防ダム工事のため、ここしばらく永松林道は通れなくなっていたのですが、
工事は完了したようで、今年は通れるようになっていました。
赤沢と銅山川の合流点のすぐそばには、真新しい砂防ダムができあがっています。
ちょどそこに、故郷を偲びに来た古老の方々がいらっしゃいまして、
運良く昔の話をあれこれ伺うことができました。
数ある資料や詳細な文献も、実体験してきた古老のお話には敵いません。





永松はかつて銅採掘で栄えた土地です。
往時は3000人もの銅山関係者とその家族が住み、それは賑やかなものだったそうです。
閉山とともに永松の集落は放棄され、住んでいた人々は全国へと散っていったとか。


「川の向ごうさは小学校や郵便局があって、こっち側さは集落がいぐつがあったよ。
 このはげ山は、そさあった精錬所の排煙のおかげでこうなったんだげど、
 閉山してがら時が経って、だいぶ緑が増えできたなぁ。」


古老の皆さんに「昔はここから銅山の中心部が見下ろせたんだよ」と教えてもらい、
かつて小学校や郵便局、隧道や索道があったという一角を眺めてみます。
かつての中心地はすっかり草木に埋もれ、何があるのかさっぱり判りませんが、
古老の皆さんは、指さしながら熱心に見定めていました。


閉山とともに永松を去った方の中には、永松で生まれ育った方もいらっしゃいます。
生まれ故郷が消えてしまうのは、非常につらいことだったでしょう。
しかしいくら廃墟になろうとも、草に埋もれようとも、
ここがかけがえのないふるさとであることは変わりません。
閉山してから50年ほどが経とうとしている今もなお、
変わらず故郷を愛する気持ちには、心を動かされるものがあります。
「永松は山形で一番最初に電灯が灯ったところなんだよ!」と、
誇らしげに教えてくれた姿が、とても印象的でした。


ついでに二口峠の様子もちょっと見てきました。
こちらは土砂災害で通行止めになっており、馬形林道合流点で厳重に封鎖され、
そこから先へは進めなくなってました。