何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

書いたのは加藤直蔵という方です




 話はきのうの続き。
 で、致道博物館の新収蔵品展に出展されていた、ある庄内藩士が幕末に書き写した庄内絵図で、特に興味深く見たのは鳥海山のところです。
 「笙ヶ嶽」「八丁坂」「虫穴」「荒神ヶ嶽」等は今も同じ名称で呼ばれています。他に現在とは呼称が微妙に異なるものが目立ちます。「稲村嶽」はおそらく稲倉岳、「蛇谷」は千蛇谷、「行者山」は行者岳のことでしょう。「大雪ミ」「小雪ミ」は、心字雪渓のことでしょうか。「山伏山」は伏拝岳なのかもしれませんが、場所が違うので別のピークかもしれません。
 地図には「絶頂七高山」の表記があります。現在の新山ができたのが、1801年のこと。地図の書き写しには文久3年(1863年)の記載があるので、新山の噴火はまだ遠くはない過去のことです。七高山が最高地点、という認識がまだ広く残っていたのかもしれません。
 鳥海湖は「干潟池」と記載されています。現在ではこの呼称はほとんど見かけませんし、使われている例も荒井は見たことがありません。古くは「鳥の海」と呼ばれていたらしいのですが、その名称ではありません。当時は干潟池とも呼ばれていたのかもしれません。
 「焼名峠」はこれまで知らなかった地名です。もしやかつて存在した、行者岳から御室に通じる道のことでしょうか。


 あと気になったのは、温海の方に摩耶山の記載が無いこと。当時、防衛戦略上の理由から、摩耶山は藩の禁足地になっていたといいます。そんなわけで地図の上から「消されて」いたのかもしれません。
 それと庄内藩の領域を示した当時の古地図には、なぜか板敷越えが必ず記載されてます。それはこの写しも然り。山や峠巡りをやっているせいか、かつての地勢を示した古地図はつい見入ってしまいます。