今でこそ山歩きが趣味の荒井ですが、そのむかし、子どもの頃は毎日見上げる近所の山でさえ、何と呼ばれている山なのかわからないという有様でした。見えている山が何山であるか判るようになったのは、まったく峠巡りや山歩きをするようになってからです(大汗)。
小学生だった頃の印象的なできごとがあります。その日はよく晴れていました。休み時間、教室に戻ってみると、黒板いっぱいに書かれた大きな文字で、担任の先生がこんなメッセージを残していました。「校舎の3階に行ってご覧なさい。鳥海山がよく見えますよ!」
そのメッセージに従って校舎の3階に行ってみると、窓からそれはすてきに、てっぺんに雪を戴きなだらかな裾野を青々と伸ばした大きな山の姿が見えました。そうか、あれが鳥海山という山なのか。おぼえとこう。
それまで鳥海山は何度となく見えていたはずでした*1。しかしそれが何という山であるかはそれまで全然気にしたことはなく、いわば、見えていたのに、見ていませんでした。以来、荒井はその山が鳥海山という山である、と認識するようになったのであります。
山の名前は実際に山を示して何山だと認識しない限り、なかなかおぼえられません。山に限らず身近にあるものであっても、それが何と呼ばれるものでどのようなものであるか、改めてこうだと示されないと、意外と認識はされないものです。
いくら故郷の文化や自然が豊かなものを備えていても、教えられない限りはその豊かさに気付きません。ですから大人は子どもさんに対し、かの担任の先生のように、「あの山が鳥海山だよ、あの山が月山だよ、あの山は…」と、たびたび指さして教えることが必要なんだろうなとおもうのです。