疫病で人が死ぬこのご時世だから、とりとめのないことをかんがえました。
「ゲームは死んでもすぐに生き返れるから、生命に対する尊厳を育まない。人の死というものが軽んじられている。」
...ひとむかしまえによく聞いた「ご高説」でありますが、30年以上前からコンピューターゲームをやっている荒井にしてみれば、決してそんなことはなかったのであります。
反論の引き合いとしてよく出されたゲームは「ウィザードリィ」です。「ウィザードリィ」では死んだキャラクターの蘇生が可能です。しかしさらにそれの上をゆく「LOST」という状態があります。蘇生失敗を繰り返したり、経時で老衰したり、迷宮で壁の中に飛ばされたりすると、蘇生さえ不可能な状態に陥ります。これが「LOST」。こうなるとそのキャラクターは文字通り消滅し、ゲームの世界からいなくなってしまうのです。つまり「ウィザードリィ」の世界における実質的な「死亡」です。
「ウィザードリィ」では、LOSTに陥る危険がそこかしこに潜んでいます。ですのでLOSTの存在が与える緊張感は相当なもの。プレイヤーは冒険中、常に死の恐怖を意識せざるを得ず、慎重かつ丁寧なプレイ―いわば「命を大切にする」プレイを―心がけるわけです。
死ぬとキャラクターが消滅するゲームでは「ザ・スクリーマー」も有名でした。冒険中、戦闘に負けるなどしてキャラクターが死ぬと、どんなに鍛え上げたキャラクターであってもその場でデータを消去されます。当時らしい意地悪な仕様ではありますが、同作を語る際、必ず引き合いに出される要素なので、演出としては成功だったのでしょう。メメント・モリです(おい)。
しかしながら、荒井が人の「死」を意識した最初のゲームは、かの「エメラルドドラゴン」です。
「エメドラ」に蘇生呪文の類いはなく、戦闘でパーティキャラが一人でも死ぬとその場でゲームオーバーとなります。しかしこれはロードしてやり直せばいいだけなので、さしたる痛手ではありません。むしろそれ以上に心に刻み込まれたのは、物語上でキャラクターが死ぬことでした。
「エメドラ」は、個性的なキャラクターがドラマティックな物語を繰り広げるゲームの嚆矢として知られます。作中様々なキャラクターが登場し、中には仲間となってともに戦ってくれます。
しかしその中には、イベントで命を落とすものも少なくありません。ファルナに後を託して命尽きるバギン、魔軍に暗殺されるヤマン、皆をかばって消滅するカルシュワル。これらキャラクターは死んだらそれきりで、もう生き返ることはありません*1。苦楽をともにした仲間が、救うこともできずに容赦なく亡くなってゆく。彼らの死は、荒井にとって「ウィザードリィ」以上に痛切に迫るものでした。
「ウィザードリィ」における死は、畢竟、それほど恐れるでもありません。なぜなら、データのコピーを取っておけば回避できるものだから*2。失ったアイテムや経験値を再び稼ぐ面倒はありますが*3、時間や手間をかければリカバリーできる質のものです。ロストはコストと言い換えることもできましょう。いわば自分でコントロールできる「死」です。
しかし「エメドラ」の死は、シナリオ上避け得ないものです。作中でそう運命づけられているのですから、プレイヤーの技量や裏技で回避できるものではありません。どんなに肩入れしても、なすすべもなく命を奪われ退場していきます。自分でコントロールできない「死」は、取り返しの付かないものとして荒井に迫ってきたのでありました。
そういうわけですので、「ゲームは生命に対する尊厳を育まない」という説は、荒井からすればとうてい見当外れもいいところです。「ファンタシースターII」のネイや、「FF7」のエアリスの悲劇がいまだ語り継がれているのは、ゲームで「死」の哀しみを思い知ったプレイヤーがそれだけ多いことの証でしょう。ゲームも古くから、しっかり命の尊さを教えていたのです。ともあれ、いのちをだいじに!