何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

軽井沢越えに行ってきた




薮がひどくならないうちに行っちまえと、
先日下見した軽井沢越えに行ってきました。
今回は軽井沢番所跡まで行くのが目標だったのですが、
下見していた甲斐あって、なんとか見てくることができました。


軽井沢越えはその昔、奈良時代大野東人が雄勝遠征のため
多賀城を発した際、奥羽越えの道として作られたと考えられています。
以来峠は羽前と陸前を結ぶ重要路線として、永らく利用されたのですが、
明治になって関山峠や鍋越峠が整備されたことにより衰退し、現在に至ります。





銀山より峠口を目指して林道をぐんぐん進んでいくと、
高倉沢と銀山川が合流するあたりに上ノ畑の廃村があります。
今でこそ温泉地として名を馳せていますが、当初、銀山は、
文字どおり「延沢銀山」なる銀鉱山として栄えていました。
上ノ畑は銀山と峠の間にあるため、古くは番所が置かれ、
往来を厳しく見張っていたと伝わります。
銀山閉山後も交通集落として重視されていたのですが、
峠の衰退にともない集落も衰退してしまいました。
今となっては住んでいる人もいないのですが、
それでも50年ぐらい前までは人もいたのでしょう、
廃村には風呂場や流し台の跡とおぼしきタイル張りや石垣の遺構、
草木に埋もれつつあるかつての田畑などありまして、
人の営みのはかなさを感じさせるのでした。





峠口は温泉街の手前から林道を3キロばかり東に進んだところにあります。
峠は廃道と化して久しいのですが、近年その歴史的価値が見直され、
細々と保護や整備の手が入れられている模様でした。
入り口には地元の歴史研究会が建てた「仙台街道軽井沢越え」の標柱が立ち、
ここが旧い峠道であることが、一目でわかるようになっています。
何よりありがたかったのは、遭難防止用のリボンが
至るところに結びつけられていることでした。
道はそこそこに残っているのですが、ところどころ薮に埋もれて
少々わかりづらく、しかも現在の地形図には道筋も載っていません。
ですからリボンの存在は頼もしい限りで、
このおかげで番所跡まで行って戻ってこられたと言っても過言ではありません。
つくづく、目印を残してくれた先達の方々には感謝するばかりです。





尾花沢側は概して道が追いやすく、難所らしい難所もさほどありません。
目印さえ見失わなければ、鞍部までは比較的容易にたどり着けるでしょう*1
鞍部手前には「天沼」なる小さな沼がありまして、
気の抜けない道中に憩いを与えてくれました。
鞍部の前後はブナ林で、美しい新緑を付けていました。





問題はその後です。鞍部を越えると途端に道が悪くなります。
道跡が沢と化してひどくぬかるばかりか、路面は流水で深くえぐられています。
それだけならまだしも、一番嫌なのが盛大な笹薮。
笹藪が厄介なのは、道跡をすっかり隠してしまうところです。
しかしこちらも下見でちゃんと学習していますので、対策ぐらいは練っています。
今回は自分も目印用のリボンを持ってきたので、
これを頼りに見事笹藪を突破することができたのでした。
尾花沢側から道を追う場合、天沼から番所跡までの区間が最大の難所です。





そうこうして難所を乗り越えると、広々とした平場が現れます。
小さな邑が余裕で一つぐらい収まるほどの広場の一角に、
目指す軽井沢番所跡がありました。
江戸時代にはここにも番所が置かれ、国境の守りの要地となっていました。
もちろん番所の建物はすでに失われていますが、
礎石や石段は今でも残っており、ここが番所跡であったこと、
人の出入りがある場所だったことをありありと偲ばせています。
番所跡は加美町の文化財なので、解説付きの標柱も立っています。
それによれば周囲には神社や墓場もあったとか。
広場には宿や国境警備の足軽の家などが建ち並んでいたのでしょう。


番所跡の北にある半森山は見事な新緑に染まり、
足元では春の高山植物、キクザキイチゲが咲き誇っています。
東人の昔からあまたの人々が行き交った道も今や人の姿はなく、
どこか寂しげではありますが、山奥の峠にも、春は等しく訪れていました。

*1:それでも山歩き初心者の方にはあんまりお勧めしません。