何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

永松鉱山跡に行ってきた

昨日気が向いて十部一峠に行ってみたところ、
たまたま寒河江の教育委員会による鉱山跡見学会の一団に遭遇し、
それに便乗する形で、なんと運良く、鉱山施設遺構を見てくることができました。
飛び入りにもかかわらず、快く参加を許可してくださった皆様方には感謝しきりです。
ふだんから見たい見たい行ってみたいと願っていたのが天に通じたようで。


永松鉱山跡は、十部一峠より永松林道を6キロほど入ったところ、銅山川のほとりにあります。
現在は鉱員住宅跡までは容易に行けるものの、対岸に渡る橋が落ちてしまっているため、
精錬所や学校があった中心部に行くには、徒渉するか別の道を使うしかありません。
今回はその道を知っている方の案内付きだったので、無事見てこられたわけです。


精錬所跡は、鉱員住宅跡からちょうど銅山川越しにズリ山を見上げたところにあります。
鉱山に至る獣道は、かつて人が物資を運んで往来したという話で、
足元に埋もれた鉱滓が、鉱山跡が近いことを教えてくれます。
そしてたどり着いた鉱山遺構は、ここが大鉱山だったことをありありと伝えるものでした。


コンクリート造りの沈殿槽や選鉱場跡、煉瓦積みの土台等々、
対岸から見上げていたものを間近にしながら、説明を聞きます。
往時は赤沢向かいの谷筋にある坑道から掘り出した鉱石を、隧道で沈殿槽に持ってきて、
選鉱してから精錬し、索道で出荷していたとのことで、各施設の配置は、
その動線を考えたものになっていました。
鉱石運搬用の隧道は、夏道が雪崩を起こしやすかったため、
冬場には子供達の通学路となっていたなんて話も伺うことができました。
風化してところどころ鉄骨が現れているコンクリートを見て、
ある参加者の方がつぶやいた「コンクリートも朽ち果てるんだ...」という言葉が、
非常に印象に残りました。


沈殿槽のあるところからは赤沢合流部がよく見えまして、鉱員住宅跡や湧き水、
新しい砂防ダムをみおろすことができました。
去年、寒河江の郷土館で開かれた永松・幸生銅山展では、
同じところから鉱員住宅を撮った写真も展示されていたのですが、
家や橋こそなくなったものの、写真と変わらぬ地形を目にしたときは身が震えました。
50年以上も前、その写真を撮った方も、永松に住んでいた方々も、
同じくここからの風景に感じ入ったのだろうなと。


近年、寒河江では永松・幸生両銅山の歴史を語り継いでいこうという動きが盛んなようで、
幸生に下りてみると、往年の姿を紹介する看板が新しくできていました。
佐渡金山のように観光化されるのは勘弁ですが、
地元に眠る貴重な歴史遺産は、末永く後世に残していきたいものです。


ちなみに画像は今のところなし。
持ってったのがFM3Aだけだったので、現像に時間がかかるのです。