何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

弾正ヶ原に行ってきた




天候不順で半月ほど単車に乗れずやきもきしていたところ、
久々に天気に恵まれたのでどこか遠くに行こうと、弾正ヶ原に行ってきました。
弾正ヶ原は福島県喜多方市塩川町にありまして、
明治時代、三島通庸自由民権運動弾圧に反対し、
農民達が決起集会を開いたという由緒ある史跡です。


山形では近代発展の基礎を築いた人物として評価の高い三島ですが、
福島では自由民権運動の弾圧者としてその悪名を轟かせています。
三島は山形県令から福島県令に転出した後、会津で大規模な土木事業に着手するのですが、
例によって住民に賦役や費用負担を強引に押しつけようとしたところ、
自由民権の気風が強かった会津の住民は当然ながらこれに反発、
三島はさらに強権をもってこれを弾圧したので、大規模な騒動に発展しています。
そのきっかけとなった事業というのが、他でもない、三方道路こと大峠の開鑿事業でして、
大峠について調べるならば、弾正ヶ原にも行ってみなければならないだろうと思ったわけです。


弾正ヶ原は約40m四方の小さな原っぱですが、片隅には地元の偉人、
栗村弾正清政公の墓がありまして、地名の由来となっています。
真ん中付近にはひときわ目立つケヤキの大木がありまして、
決起時には主導者がこの木に登って演説を打ち、約一千人の民衆を鼓舞したのだそうです。
今は夏なので盛大な草いきれの中、蝉が激しくすだいていましたが、
決起の時、寒風吹きすさぶ広場は集う群衆の熱気と怒号が渦巻いていたのでしょう。


そもそも会津藩佐幕派の重鎮として知られる雄藩で、
戊辰戦争でも奥羽列藩同盟の中心的存在となっていました。
ですから会津の人々は薩長による新政府には何かと思うところがあったことでしょう。
薩摩の懐刀、三島との衝突は、当然のことだったのかもしれません。
福島の県庁所在地が会津に置かれなかったのは、
会津が佐幕派の土地だったからだとまことしやかに語られています。