何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

野蒜築港跡に行ってきた




単車のバッテリーを交換したということで、昨日石巻までひとっ走りしてきたのですが、
その途中、たまたま野蒜築港跡を見物する機会に恵まれました。
野蒜築港とは明治初頭、宮城の鳴瀬川河口に築かれた大規模な港湾施設で、
西回り航路の北前船から太平洋の汽船へと、海運の近代化を示す遺構となっています。
荒井的には関山峠との関連でその名が出てくるところでして、
そもそも三島通庸による関山隧道開鑿は、野蒜築港からの汽船荷を
山形に運び込むための移入路として企画されたという経緯があります。


名前だけ知っていましたが、以外の詳細は全く知りませんので、
小漁港に毛の生えた程度のもんだろうとか、今でも船着き場として
それなりに使われているのでないかと勝手に想像していたのですが、現物は全く違いました。
野蒜築港は港湾施設はもちろん、都市計画までもが含まれる巨大な遺構です。
港は横浜や長崎に匹敵する商業港として企図されたものですが、
海から押し寄せる大量の砂に悩まされたそうで、
建造後間もなく台風による砂被害で壊滅し、放棄されています。
それ以降現在に至るまで、港は利用されていません。
砂の堆積がひどいのは現在も同じようで、たまたま会った地元の古老の方によれば、
河口付近は今でも数年に一回、浚渫が欠かせないとのことでした。
ちなみに付近はサーフィンの名所でもあるようで、近隣からサーファーが集ってくるそうです。
横浜級の大港湾となっていたら、気軽に波乗りが楽しめる場所には
なっていなかったのかもしれません。





近くに航空自衛隊松島基地があるからか、
大部分は防衛省の管理下にあるようですが、その合間合間には、
かろうじて往時の橋脚跡や施設の遺構が残っています。
街区の中央広場だったという場所には、築港の功労者石沢敬徳氏を讃える記念碑と、
地均しに使われた石製のローラーが設置してあり、
幻に終わった大事業が確かに存在した証拠となっていました。
港は近代の貴重な建築遺産として認識されており、土木学会選定の土木遺産入りを果たしています。


その後荒井は関山峠経由で山形に戻ってきましたが*1、峠はあたりまえのように多くの車が行き交っています。
この道が整備されるきっかけとなった港が、早々に放棄され遺構になってしまった事実に、
悲しい歴史の皮肉を感じずにいられませんでした。

*1:どうでもいいが昼飯は仙台駅前神田の立ち喰い蕎麦。十何年ぶりに喰ったがやっぱり旨かった。