何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

難しさは面白さだったのか

また「ポートピア」ネタで失敬。
気づけばこれで「オホーツクに消ゆ」「軽井沢誘拐案内」「ポートピア連続殺人事件」と、堀井雄二さん三部作AVGが手元にそろってしまいました。
どれも80年台前半から中盤にかけて大ヒットしたものです。
まっとうな推理をすれば先に進めるように作られていて、ハマリこそあるものの、当時のゲームとしては理不尽さがないことに驚きます。


「不条理な謎解き、陰険な難易度、無用のボリューム。
 80年台前半のコンピューターゲームは理不尽さのオンパレード。
 しかしそうした難しいゲームほど面白いと考えられていた。」
とはよく言われることですが、「イース」「ジーザス」以前にも、「ウィザードリィ」「ザナドゥ」、そして堀井三部作等、ゲームバランスに優れ、きちんと遊べばきちんと解ける作品が、それら理不尽ゲームの中にあってちゃんと評価され、ヒットしていたことを考えると、「難しいゲームほど面白いと考えられていた。」という言説は、果たして、本当だったのでしょうか?


当時のゲームは理不尽だったともよく言われることですが、思うに、当時は制作者もプレイヤーも、それを理不尽なものだと認識していなかったように思います。
山下章先生のように「このゲームのこの箇所は理不尽だ」と指摘する人や、「こういうものが本当に面白いのか?」と、理不尽なゲームに疑問を持つ人ももちろんいましたが、そこが大きく問題になるでもなく、ゲームとはそのようなものと受け止めてあたりまえに遊んでました。さりとて難しさを面白さと認識していたでもありません。


「イース」「ジーザス」の出現を機に、理不尽さが問題視されるようになり、誰もが解けるゲームが主流になっていったことは確かです。
ところが改めて考えてみると、「難しいほど面白いと考えられていた」という常識は、果たして本当に存在していたのかと、思ってしまっているわけです。


最後にとってつけたように、今年も聖誕節前夜。
今日ぐらいは世界が平和でありますように。