何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

雛供養を見てきた




 そういうわけできのうのつづき、谷地ひなまつりのおはなしです。
 主会場となっている通り近くの秋葉神社に雛塚なる碑があるというので、寄ってみることにしました。すると神社でほどなく雛供養の神事をするというので、感ずるところあったのか、見物していくことにしました。
 神社の境内は猫の額ほどの広さで、雛塚はその一角にあります。お祭りだからか、碑の前にはそばやら餅やらニシンやらが供えられ、さらにその前の祭壇には雛人形がずらりと並べられ、賑やかなものです。
 しかしその祭壇はところどころが黒くなっていて、あたりには灰なんかも落ちています。一見華やかで彩り豊かな光景ですが、穏やかならざる気配がどこか漂っているような心持ちがします。


 古来人形には、持ち主に代わって災厄を引き受けてもらう「形代」としての性格があります。雛人形の原点はまさにこの「形代」です。雛供養とは古くなったり引き取り手がいなくなった雛人形を集め焚きあげ供養して、厄を祓おうという神事―ひどい言い方をすれば「聖なる焼却処分の儀式」―です(おい)。





 供養の時を待つ雛人形は祭壇にあるもののみならず、小さな社殿の床にもいっぱいに並べられてありました。古いとはいえ、そのほとんどはまだまだ飾れるくらいに程度のよいものばかりです。多くは持ち主の事情で手放されたものなのでしょう。どの人形もおそらく、かつては子供の成長という願いを託され、大切にされ、さまざまな想いを見てきた品だろうことを思うと、これから待ち受ける運命がもの悲しくもありました。
 すぐ近所に展示されている歴史雛と、どこが違ったのでしょう。もしかすればこれら雛人形にも、数百年の時にわたって受け継がれ、珍重された未来があったのかもしれません。もし人形に意思というものがあるのなら、もろもろの人間の都合で焚きあげられる運命を、どう思っていたのでしょう*1


 時間が来ると神官の方が二人やってきて、神事がはじまりました。塚の前で祝詞をのべ、御神酒を振りかけ、祭壇の人形を祓い清め、魂を天に還します。しかる後、短冊みたいな火種から祭壇に点火。はじめは分厚い煙を上げつつ、火が廻って温度が上がるにしたがい、紅蓮の炎となって燃えさかっていくのでした。
 炎の間に見え隠れする人形のかんばせは真っ白から真っ黒に変わり、衣装は燃え落ち灰と消えていきます。まぁ「雛供養」ということばの雅やかさに比して、その光景は非常にエグいものでした。





 そこに見たのは、行き場を失った「モノ」の最期の姿でした。
 人形に限らず、あれが欲しいこれが欲しいと荒井は日々物欲にまみれ、これ買っちゃったぞとかいいモノ手に入れたとか喜んだりしているわけですが、一方で、どんな大切なものであっても、永遠に持っていることはできないのだということも、渋々、しかし重々考えることではあります。その時自分はどうするか。モノは大きな喜びをもたらす一方、こんな哀しみも連れてきます。
 モノを手にすることとは、いつか(しかし必ず)訪れる別れの時を考えることでもあるのです。


 雛人形が燃える間、神官さんはひたすら祝詞を唱えています。その様子は厄を祓うというよりも、雛人形を必死に慰めているようにも見えました。
 災いを遷した形代を滅ぼすことで厄を祓う。それが雛人形の原点でした。しかし人間の業とは、それだけで祓える程度のものなのか…燃えさかる雛人形の炎とは、「業火」だったのかもしれません。

*1:ちなみに供養の初穂料は一口3000円。供養に出す側も気軽に出せるわけではありません。