何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

足尾に行ってきた

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 縁あって荒井が仲良くしてもらっている「永松の会」の旅行で、栃木の足尾に行ってきました。
 かつて日本一周した際、足尾は一度訪ねているものの、そのときはひどい雨降りで、松木渓谷を見ただけでした。
 その後旧い峠歩きや旧跡巡りをするようになってから、鉱山にも目が向くようになったのですが、先日、足尾銅山を見に行こうというお誘いを受けまして、改めて見てみたくなって行ってきたというわけです。今度の足はバイクではなくレンタルしたプリウスです。だから雨が降っても平気だい(おい)。


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 永松の会とは、かつて大蔵村の山中十部一峠の近くにあった銅山、永松鉱山・幸生鉱山を偲ぶ人たちの集まりです。
 鉱山の歴史は江戸時代に始まりますが、特に明治以降は古河鉱業のもとで近代的な採掘技術が導入され、国内有数の銅山に成長します。最盛期には鉱山関係者とその家族約3500人もの人々が周辺に住み、一大都市を形成しました。しかし鉱脈の枯渇により昭和36年に閉山、人々は全て山を下り、無住の地となりました。メンバーは主に永松で生まれ育った方々や住んでいた方々。それと永松の歴史や風景に魅せられた人々。若輩者の荒井は後者です。


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 足尾銅山は言わずと知れた、近代に東洋一の大銅山として栄えた鉱山です。田中正造鉱毒事件でも有名でしょう。古河鉱業が経営していたこと、山間の渓谷に存在すること、周辺に一大都市を形成したこと等々、永松鉱山とは共通する部分が多いのですが、決定的な違いは、閉山後も容易に遺構を見に行けることと、歴史を保存したり伝承する姿勢が比較的整っていることです。いわば足尾は永松にとって兄弟のような存在であり、保存活動の先進地域であるわけです。


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 会のみなさんと街並みや遺構を眺めていると、さまざまなことを教えてくれます。このあたりは繁華街だったところ、あの建物は「長屋」(鉱員住宅)で、あの石積みは選鉱所の跡...等々。一人単車を転がして見に来たときとは比べものにならないほど、さまざまなものが見えてきます。再び訪れた松木渓谷の山並みは、以前と同じでもあり、違ってもいます。
 荒井が旧いものに惹かれるのは、現在日本に住んでいるならまず考えることはないだろう「滅ぶ」という概念を、否応なしに突きつけられるからなのでしょう。文明や栄華はうたかたのものですが、そこには間違いなく、今の我々と変わりない、人々の往来や営みというものがあったはず。そういうことを忘れたくないからなのだと思います。
 足尾は街全体が近代の遺跡であり、記念館みたいなものです。今さらながら日本一周の際、じっくり見なかったことが惜しまれました。


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 永松出身者の方々にとって、足尾には故郷を彷彿させるものがあるのでしょう。数々の遺構を見るまなざしが、懐かしさに満ちています。年の半分が雪に埋もれる永松は現在容易に行ける場所ではなく、主だった建物も失われています。そのためか地元山形でも永松の名は忘却されつつあり、関係者の高齢化も進んでいます。その記憶や歴史をどう残していくか。どう次の世代に伝えていくか。それが目下の課題であり、自分も何か手伝えないかと思うわけです。