何とか庵日誌

本名荒井が毒にも薬にもならないことを書きつづるところ

檜原峠に行ってきた




薮が繁りだしたら大変だということで、
かねてから気になっていた檜原峠に行ってきました。
檜原峠は米沢と会津を結ぶ旧い峠です。
峠道は会津街道*1と呼ばれていますが、近代以前は会津のみならず江戸への往還でもありまして、
現在の万世大路にも匹敵するような主要道でした。
ところが近代になるとその万世大路や大峠、奥羽本線
西吾妻スカイバレーといった交通路の開通によって忘れ去られ、
かつてのような往来は絶えて久しくなっています。
現在はすっかり薮に埋もれ歩くのも難しいという有様ですが、
何かと惹かれるものがありまして情報を集めていたところ、
どうやら行けそうだということがわかりまして、
行くなら今しかないとあわてて行ってきたという次第です。





戦国時代には伊達政宗公と会津蘆名氏との国盗り合戦の舞台となり、
江戸時代には将軍に遣わされた巡検使の通り道となり、
幕末には米沢藩士と語り合うため吉田松陰も越えたという峠なのですが、
峠を越えてやってきたのは人物だけではありません。
まず訪れたのは笹野一刀彫りこと「おたかぽっぽ」で有名な笹野観音堂です。
観音堂は平安時代初頭、徳一上人によって中興開基されたと伝わりますが、
その徳一上人が米沢にやってきた道が檜原峠だったと考えられています。
街道沿いにはこうした外からやってきた高僧が開基したという寺が
いくつかありまして、峠が仏教伝来の道でもあったことを偲ばせています。
お堂は杉木立とあじさいに囲まれ、ひっそりと静まりかえっていました。
一月もすればお堂は見頃を迎えたあじさいに彩られることでしょう。





観音堂を出てさらに南へ進むと、船坂峠の登りにさしかかります。
現在は10年ほど前に開通したトンネルと新道で通り抜けられますが、
それ以前の旧道は見通しの悪い九十九折で頂上へ登っていくという険路です。
旧道はほぼ廃道となっているのですが、随所に街灯やスリップ注意の標識など
残っておりまして、以前の難所ぶりを伝えています。
なんでも江戸時代、ここは米沢藩の最終防衛線だったようで、
あえて見通しが利かないようにこんな険路を造ったのだとか。
ちなみにこの峠、米沢盆地南の出口でもありまして、
登りきるとすぐに峠道が終わります。
ですから鞍部で「さぁ、下っつぉ!」と息巻いたら、
すぐに現在の道と合流したので、いささかズッコケました。





船坂峠を出て関の集落を抜け、
長大な九十九折りで綱木峠を越えると、綱木へとたどり着きます。
綱木は檜原峠前最後の集落で、会津街道が現役だった頃には
宿や番所等が置かれ、米沢南の要地となっていました。
ところが街道が廃れた現在、ずいぶん過疎化が進んだようで、
空き家や空き地がずいぶん目立ち、どこかもの悲しさが漂います。
それでも古い家並みや村の作りは旧い宿場町の格式を感じさせるもので、
たびたび訪れたいと思わせるものがありました。





山形側から檜原峠に行くのは相当に危険だと判断して、
今回は比較的容易に*2行けそうな福島側から登ることにしました。
綱木より先は百子沢林道と鷹ノ巣林道二本の林道で
檜原湖に行けるようになってまして、
これを使えば隣のスカイバレーや大峠に頼らずとも、
福島側の峠口まで行くことが可能です。
現在はこの林道を檜原峠と呼ぶこともあるようですが、
厳密には金山峠と呼ばれる新しい峠です。
この開通によって檜原峠はますます衰退に拍車がかかったとか。
案内看板では林道は「引き返したくなるような悪路」と評されていまして、
たびたび路肩崩壊等で通行止め、現に去年も通行止めになっていたようです。
今日は通ることができまして、無事福島側峠口にたどり着くことができました。





福島側峠口は迷沢橋(まいさわばし)の1キロほど手前のところにあります。
入り口には「史跡旧米沢街道桧原峠別」の標柱があるので、
一目でそれと分かりますが、その先には薮っぽい道があるだけなので、
まっとうな人間ならば、この先に踏み込もうとは思わないでしょう。
荒井はまっとうな人間ではないので、嬉々として足を踏み入れます。
もっとも、道筋には先達が目印に残していったリボンがいくつかありましたので、
物好きは荒井だけではないようです。


峠道自体はそう距離も長くなく、道跡も残ってはいるのですが、
至るところが薮に覆い隠され、注意していないとすぐに道を見失います。
特に厄介なのは中腹にさしかかった頃に現れる広場(画像)で、
ここで大いに迷う羽目になりました。
遭難防止リボンに頼りつつ、沢に下りてみたり灌木の薮に分け入ったり、
ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら道を探すこと約1時間、
広場の片隅の薮をかき分けてみたところ、その先にはっきりとした道跡があるのを発見し、
ようやく事なきを得たのでありました。





広場を出ると、道はいくつかの九十九折りを描きつつ峠へと向かいます。
道跡自体ははっきりと分かるのですが、笹薮がひどくて歩くのに難儀します。
茨がないことと、薮が胸丈程度でまだ見通しが利くというのがせめてもの救いです。
それでもたまに薮の退けたところが現れまして、往年の街道らしい姿を見せてくれました。
さすが千年以上も人々が行き交った歴史街道、そう容易には消えません。





かくして二時間ほどの探索と薮との格闘の末*3
なんとか目指す檜原峠の鞍部へとたどり着きました。
ブナに囲まれた切り通し*4は堂々としたもので、歴史街道ならではの存在感を放っています。
通る人こそ少なくなったものの、笹藪こそ繁っているものの、
峠の空の明るさや渡る風の爽やかさは、昔と変わりないのでしょう。
峠を見下ろして立つ木の根元に腰を落ち着け、
数々の要人やあまたの無名の人々、文物が通った峠を眺めるのは格別の思いでした。
歴史の道として、ぜひとも後世に伝えていきたいものです。


...今度は雪解け直後の薮がひどくない時期に行きたいもんです。

*1:米沢側での呼び名。会津ではもっぱら米沢街道と呼ばれる。街道名は行き先で呼ばれることが多いので、同じ道でも場所によって呼び名が変わる。

*2:飽くまで山形側に比べればの話。

*3:道を知ってさえいれば40分程度で行けます。

*4:厳密には切り通しでなくて境塚。道の左右に一つずつあって、米沢と会津の国境であることを示した。